昭和五十六年五月十五日 朝の御理解
御理解第五十節「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物が出来るようなものぞ。」
いつうも心の中に不平不足を感じ、不平不足を言う人があります。信心して心が肥え豊かになっていく、それが信心なのですから、たとえ心配事というてもその心配が心配にならず、おかげで又これで信心が出来ますといったような心になればまあ心配はなくなるし、不平不足のその元をようく見てみると、むしろお礼を申し上げめばならないような事にいつも心ん中に不平不足を感じておる。又はそれを口に出して言うておる。だから結局自分の心の状態が成る程これではいつまでたっても、一人でに物が出来るようなおかげにならないなあと勿論一人でに物ができるという事はお徳を受けるという事でしょうけれども、これでは何十年信心しておってもお願いをしておかげを頂く事は頂いても一人でに物が出来るようなおかげにはならないぞと、先ず自分の心を見極めて分からなければいけない。 心が豊かになっていく。心から不平がなくなり不足がなくなり、そして例えばどういう事があっても驚いてはならんと仰せられるようなどういう事があっても、はあこれで信心の稽古をさせて頂くんだなあという心の状態にならせて頂く所からおかげが受けられる。 まあこれは断片的にいうてもそうです。まあ心配事がある。腹の立つような事がある。お取り次ぎを頂いてお願いをする、心が安らぐ。その安らぐ心におかげが受けられるんですよね。それが積もり積もって安らいだその心が豊かになりもう不平不足なんか全然なくなって来て、ただ有り難い有り難い、勿体ないという事になってくるんです。
信心は結局自分の心が豊かになっていく稽古なんです。ですからまあ昨日研修の時に、昨日まいりましたお道の新聞を読んでもらったんですけれども、或る時に教祖様の元にまあ難儀を抱えた人が参って来た。いわゆる貧乏しとるわけである。それで教祖様がおっしゃる事がね、一日でも食事御飯を食べないというような事があったかやと言うて尋ねておられますね。いいえご飯だけは三度三度食べさせて頂いておりますと「たとえば米を百俵、千俵積んでおっても食べられない人がおるぞよ」とね。御飯が毎日食べられておればそれが分限者じゃとおっしゃったそうです。ほんなこつお礼を申し上げねばならん事にどうしてこんなに貧乏が続くじゃろうかばっかり不平不足を言っておったんではおかげは受けられない。「貧乏しとります。貧乏しとりますと言うけれども、いっぺんでもなら御飯が食べられなっかった事があるかや」と、「いいえ、それはございません。」「そんならそれが分限者じゃ」と、おっしゃった。百俵、千俵米積んでおっても例えば許されなければ食べられないとい人があるぞとおっしゃった。もうお取り次ぎのテクニックというか、素晴らしいですね。その思いを云わばおかげの受けられる心に切り替えて下さる。合楽ではそれだと思うですね。ですからもう合楽でずうっと御理解を頂いて自分の心ん中に不平不足を感じておった事がすきっと日々取れていって、ただ有り難いお礼を申し上げる他はないというふうに稽古をしていく中にいつの間にか不平不足の元がなくなり心が豊かになり一人でに物が出来るようになってくるんです。
昨日福岡の秋永英治君がお礼に出てまいりまして、清松さんというて熱心にここに参って、この方は月曜たんびに理髪屋さんですから理髪屋さんのお休みの時にもう必ず、毎日毎日のお日届けをやっぱいろいろ沢山のお届けがございます。いわゆるこういう日参、教聴といわれるその日参的信心が出来ておられるわけである。その方の事を昨日英治君が昨日聞いた話ですけれども、今度あのう胃に癌が出来ておるというので病院にお出でられるという話を聞きましたから、どうぞお届けをして下さいと言うてお願いがあった。まあ此の頃毎日癌のお届けの多いのにびっくりする位、まるっきり合楽はガンセンターのごたると言うて申しました事ですけれども、すぐお取り次ぎをさせて頂いたら、それによって信心の稽古をするのぞというお知らせを頂いた。それでお取り次ぎを終わってものの五分か十分位した時に、その本人清松さんから電話がかかって、ただ今から病院にまいります。先だってから何回かこうもうあらゆる角度からこう検査した所がそこにやっぱしその癌があるから今日はもっと詳しい検査をしなけりゃならんというのでまあ今からまいりますからというから、今英治君がああたの事をお届けさせてもろうてお願いをさせて頂いたら、それは心配する事じゃなくて、それで信心をもう一段進めていく信心の稽古の材料ですよというて、はあそうですか、ちいうてまあ云うなら安心して病院に行けれるという感じを私が電話の先で感じました。夕方本人がお礼に出てまいりました。もうお医者さんが確かにここにあったのが無いからもうそれこそレントゲンをとり、それから胃カメラをとってもうそれもあらゆる角度からとって頂いたけれどもまあ何にもなかったという。
此の頃そういう何にもなかった、流れたというのが次々と続いております合楽では。もうそれこそもう有り難い、云うならお礼参拝が出来たわけですけれども、今から病院に行こうという兎角不安で不安でたまらない心が、云うならば全然心配がなくなるわけじゃないけれども心が安らいだ。成る程これで本気で信心の稽古をさせて頂こうとある事柄を心の中に決めた。おかげを頂いて安らいだ心でまあ診察を受ける事が出来た。おかげであった筈のものが無かったというようなおかげを頂いたというお礼お届けである。だからそういうおかげを日々例えば頂いていくのである。うちはどうしてこげにおかげ頂ききらんじゃろうかと不平不足なんです。だからそういう心がある間はおかげを受けられん。 一人でに物が出来るようなおかげにゃならんと思うて、いわゆる悟って自分の心の中から不平もなからなきゃ不足も無い。あるものはお礼と喜びばっかりというようにです、していくという事が私はお徳を受けていく事、一人でにものが出来る程しのおかげ。不平不足の心の中にあったり、いらだちがあったり、腹がたったりする心の上には一人でにものが出来るようなおかげにゃならん。そういうお徳にゃならんと分かって、その不平不足に取り組んでその不平不足も、心配になる事もむしろ御礼にならなけりゃお礼にお礼を申し上げねばならない事だと分かった時に心の中が平静である。そういう稽古を積んでいく事です。そこからどんな事があっても驚かんですむ、どんな場合でもお礼が言えれる喜びの一日一日が過ごしていけれる、いよいよ心はいやが上にも豊かになる。そこに一人でに物が出来れるようなおかげが頂けるという事になります。先ず不平不足が心の中におこったら、もうその場ででもそれを取り消させてもらえる。これを合楽理念に基づいたらお礼を申し上げねばならぬ事に気づかせてもろうて、不平不足を取り除いて行く、しっかり稽古がいよいよ一人でに物が出来るようなおかげの元になるということございます。
どうぞ